ここにはない、地獄

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9月8日、新横浜で出張終わりの母に会った。

 


ロイヤルホストで待ち合わせたいなあとぼんやり思っていたら、母の方から「ロイヤルホストで待ち合わせよう」と連絡が来た。血は争えない。

 


母とは2年弱連絡が途絶えていたけれど、最近また少しずつ話せるようになってとても嬉しい。私が「スタバの紙ストローの感触が嫌でついプラストローを頼んでしまう」とどうでもいいことを話すと、環境に悪いから紙ストローでも我慢しろと怒られた。

 


私の知る母は環境のことなどを気にかける人ではなかったのだが、随所随所で母の変化は感じ取っていた。昨年夏、母は今の会社で出世したらしい。先日お盆に久し振りに実家に帰ったら、シャンプーが5000円くらいするいいやつだったり、美顔器を持っていたりと明らかに生活水準が向上していた。私が中学の頃から使っていた本棚には母が私と会わない間に新たに購入したであろう小説やビジネス本が溢れており、上野千鶴子フェミニズムの本まで置いてあった。これにはかなり驚いてしまった。母は社会問題に対して感情的になることはあっても本を買って読むほど勤勉ではなかったと思う。

 


紙ストローを使えと怒られてバツが悪くなりながら、母の心の余裕を羨ましく思った。

 


目の前にいる母は仕立てのいいジャケットを羽織り、パープルのラメが入ったジェルネイルが施された指には馬蹄を模したリングを着け、肌艶も良く自信に満ち溢れていた。誰がどう見てもカッコいいキャリアウーマンである。

 


私と会わなくなってからの方が明らかに生き生きとしている母を見て、母は私がいなくなったことでようやく自分の人生を取り戻したのだと悟った。そのことは私を嬉しい気持ちにさせた。奇しくも母と同じような人生を辿りつつある私に母は「あんたもこれから地獄見るよ」と笑いながら言った。母が私を育てる為に地獄を見ることを引き受けてくれたことにありがたさを感じた。

 


私はこれからの人生で母が見てきたような地獄と同じ地獄を見ることになるのだろうか。いや、これからなんかじゃない。私はもうずっと前から地獄の業火に取り囲まれている気がする。水を汲んではかけ、汲んではかけを繰り返して必死に火を消そうとするのになかなか消えない。炎の向こう側に行けない。その内疲れて燃え盛る炎の中心でやっぱり私はどこへも行けないんだと嘆く。だから私は本を読んだ。映画を観た。音楽を聴いた。どうしたら火を消せるか考えた。自分を奮い立たせてもう一度バケツを手に取って水をかける。消えたかと思うとすぐさままた燃え広がる。こんなことを二十何年間も繰り返している。

 


私にとってすべての芸術は自分を知るためにあった。外圧を真に受けやすい性格の私は、自分が今何を考えていて、何に感動して、何が好きで何が嫌いかを芸術に触れることで確認するのが癖になっていた。

 


それでも自分がどういう人間かを正確に把握出来る日は来ない。永遠に来ない。そんなことを出来る人間などいない。もしかしたら私はすでに火の消し方を知っているのではないか?今までの私は火を消し続けることこそが人生の目標だと思っていた。炎の向こう側で何をして生きていくかよりも、火に水をばしゃばしゃかけ続けている方がよっぽど楽だったからだ。私が怖いのは私を取り囲む炎ではなく、炎の向こう側の世界だったのだ。

 


いい加減私はここから抜け出さなくてはならない。そこに新たな地獄が待っていようとも。

 


ちょっとくらい火傷をしても大丈夫。火傷の手当の仕方も知っている。大丈夫だ。

 


まずはチャイティーラテを紙ストローで飲むところから始めてみよう。